2009年10月21日
ブリタンニア
ローマの接触と属州ブリタンニアの成立
ガイウス・ユリウス・カエサルがガリア戦争中の紀元前55年と54年に2度の遠征を行ったときが、ローマとブリタンニアが直接に接触した最初である。ただ、この遠征はガリアを掌握する一環として行われたものであり、恒久的な拠点を獲得するものではなかった。
40年にカリグラは再びブリタンニアへの遠征を企画したが、この計画自体は実現性に乏しく、その後ローマで政変が起こり、結局実行されなかった。
ブリタンニアが実際にローマの勢力に組み入れられたのは、43年のクラウディウス帝の遠征によってである。このときアウルス・プラウティウスを総司令官とする4個軍団約4万のローマ軍は、カトゥウェッラウニ族の王カラタクスに率いられたブリトン人部族連合を破り、ついでクラウディウス帝自身による援軍を待った後、カトゥウェッラウニ族の都であるカムロドゥヌム(現在のコルチェスター)を占領した。直後にクラウディウス帝は同地で属州設置宣言を行い、紀元43年に属州ブリタンニアが誕生した。占領当時はカムロドゥヌム(後に植民市化)を中心とする南東部一帯のみを支配下に置いていたが、その後ローマは北部、西部、南西部の各方面に軍を展開、抵抗する部族を平定し、着実に領土を増やしていった。なお、南西部に展開した第9軍団ヒスパナは、のちにフラウィウス朝初代皇帝となるウェスパシアヌスが軍団長を務めていた。
支配の拡大と反乱
属州ブリタンニアの統治は、基本的に圧倒的な軍事力による武断統治である。総督には代々軍団長やそれに準じる経験を持つ者が就任し、前述のカムロドゥヌムは退役兵に住まわせるための植民市とした。各軍団は、時代により異動があるもののコーンウォール地方のイスカ・ドゥムノニオルム(現エクセター)、ウェールズ南部のイスカ・シルルム(現カエルリオン)、ノーサンブリアのエボラクム(現ヨーク)、ウェールズ北部のデウァ(現チェスター)にそれぞれ正規軍団要塞を構え、各方面の辺境を守備するとともに属州領内部を監視した。領土内では、従属させた各部族をそのままローマ式の行政単位(キウィタス)に改変し、税を課した。しかし一方で、従順な部族の権利は実質的に温存された。また、ローマ軍に協力した隷属部族(イケニ族、アトレバテス族、レグニ族など)は一時的に独立が許されたが、王統が途絶えると軍事力でもって強制的に属州領に併合させられた。属州ブリタンニア最大の先住民反乱であるボウディッカの反乱もイケニ族の併合に端を発する動乱であった。
以上のような統治体制の下で属州ブリタンニアは比較的安定し、アグリコラ総督の時代(77年 - 83年)にはカレドニア(スコットランド)北部を除くほぼ全領域を支配、属州時代最大の版図を現出した。
しかしそれ以降は北部のスコット族からの圧力が強まり、五賢帝時代には北方前線が後退するとともにハドリアヌスの長城、アントニヌスの長城が築かれた。補助軍の基地の一つヴィンドランダ遺跡には当時の守備兵の風俗を伝える大量の木簡文書が発見されている。
ブリタンニアには前述の通り多数のローマ軍が駐在し、総督には皇帝の信頼が厚い熟練した人材が当てられることが多かった。このためブリタンニア総督を経験した皇帝は少なくない。ペルティナクス、ゴルディアス1世がこれに含まれる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
ブリタンニアの成立について調べてみました。
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